第3回憲法談話室(2016.6.5)の報告

憲法談話室(第3回6月5日)の報告
 この日のテーマは憲法九条、講師は憲法を考える若手弁護士の会の足立啓輔弁護士であった。

 この憲法九条については、実に様々な論議が交わされている。しかしこの九条がどんな意味であるかは、1947年・昭和22年8月2日に文部省が発行した中学校1年用の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』に明らかにされている。そこでこれを転記しよう。
 戦争の放棄
 みなさんの中には、こんどの戦争におとうさんやおにいさんを送りだされた人も多いことでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いことでしょう。いまやっと戦争は終わりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったのでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には大きな責任があるといわなければなりません。この前の世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これは戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、決して戦争によって、相手をごまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんのくにをほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえて、ゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

 この『あたらしい憲法のはなし』は1947年の8月から1952年3月まで使われた。しかし、1952年の4月から姿を消した。なぜだろうか。
 実はこの占領終結直後の1952年7月23日と1954年の2月8日の2度、当時の吉田茂首相は極東米軍の司令官と口頭で二つの密約を結んでいる。それは1950年に6月に起こった朝鮮戦争で苦境に立たされた米軍が、あろうことか戦争を放棄した日本に戦争協力をさせるために持ち出した密約であった。(矢部宏治・日本はなぜ「戦争をすることができる国」になったのか)
 この密約は二つあった。一つは米軍が日本の基地を自由に使うための密約(基地権密約)。もう一つは日本の軍隊を自由に使うための密約(指揮権密約)である。この基地権密約・日本の基地を自由に使う権利に対して日本政府は核兵器の地上への配備を除いてほとんどすべての要求に応じ、密約を結んできた。今日、この密約の犠牲下にあるのが沖縄である。そして指揮権密約については、専守防衛の名のもとに違憲の自衛隊を創設して、密約で米軍の指揮下に入ることを認めつつもその行動範囲は、あくまでも国内だけにとどめ、国外での軍事行動については2015年までは拒否しつづけてきた。
 ところが、安倍政権が昨年の9月19日に成立させた安保関連法によって状況は一変した。上記の指揮権密約・日本の軍隊を自由に使うための密約があるため日本が海外で軍事行動を行うことになったら、自衛隊は日本の防衛とは全く関係のない場所でも米軍の指示のもと殺し殺される軍事行動に従事することになった。そのため、日本が自分で何も決断しないうちに、戦争の当時国となる危険性を抱えたのである。
 
 この戦争当事国となる危険性はどこから来るのだろうか。日本が憲法よりもアメリカとの密約と地位協定を重んじているからである。1957年7月、米軍立川基地の拡張工事をめぐって、反対派のデモ隊が米軍基地の敷地内に数メートル入ったことを理由に、刑事特別法違反で7人が逮捕された。この事件の一審裁判で東京地裁・伊達秋雄裁判長は、在日米軍は憲法第九条2項で持たないことを決めた「戦力」に該当するためその駐留を認めることは違憲である。したがって刑事特別法の適用は不合理として被告全員を無罪とした。この伊達判決は1959年3月30日に出された。しかし、その翌日からはじまったアメリカ大使とアメリカ国務省と外務省・日本政府と最高検察庁の働きかけによって、同年12月16日に出された最高裁による砂川判決によって覆された。米軍基地をめぐる最高裁のでの審理において最高検察庁がアメリカの国務長官の指示通りの最終弁論を行い、最高裁長官は大法廷での評議の内容を細かく駐日アメリカ大使に報告したあげく、アメリカ国務省の筋書きにそって判決を下したことが、アメリカ側の公文書によって明らかになった。
 このことは、戦後の日本では、安保を中心としたアメリカとの密約や条約群が、自分の国の法体系よりも上位に位置していることを意味する。それゆえ、日本は独立した法治国家ではないことを自ら暴露したことになる。このことは今回の安保法制の論議においても明らかとなった。なぜなら、2014年の7月の閣議決定にはじまった壊憲論議と2015年9月19日の国会における強行裁決は国会を取り巻いた憲法を守れの民意をないがしろにしてアメリカとの密約を重んじ米軍の指揮下に入る決断をしたからである。

 憲法九条は先に記した通り、戦力と戦争を放棄したものである。しかし、現政権はこの憲法に違反した行政をいている。悪名高きナチスの全権委任法の第二条には「ドイツ政府によって制定された法律は憲法に違反することができる」という条文があった。これをやったらどんな国だって滅ぶに決まっている。憲法とは主権者である国民から政府への命令、官僚をしばる鎖である。ところが日本の場合は米軍基地をきっかけに憲法が機能停止状態に追い込まれ、アメリカの意向をバックにした行政官僚達が平然と憲法違反を繰り返している現状にある。
 改めて1947年の8月に出された「新しい憲法」に立ち帰る必要があるのではなかろうか。